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幕末

幕末の動乱と新撰組

新選組は会津藩とのかかわりがとても深い。会津戊辰戦争に於ける新選組、函館戦争に於ける新選組はこの新選組(壱)(弐)(参)(四)(五)からは省略する。

1853年(嘉永六年)夏、ペルー率いる米国の艦隊(いわゆる黒船)が浦賀に現れ、二百数十年来の鎖国が破られ欧米列強の一方的「通商条約」を強いられ、徳川幕府の根幹が揺らぎ始め、水戸・薩摩・長州・土佐の雄藩の台頭が起こり始め、京都朝廷を擁して幕府の改革、攘夷の断行を迫る動きが起こった。尊王攘夷を振りかざし、諸藩の志士、浪人が巷に席巻し世情不安な情況が、特に京都を中心に生まれ出してきた。この後、安政戊午の大獄、桜田門外の変(1860年3月)などがあったが、志士、脱藩者、浪人が増え始め江戸市中も治安が不安定になり始めており、幕府にとって、これらの取り締りに手をやくことであった。また、討幕への動きも現れてきたのである。後述の資料にもある出羽庄内(山形県)の浪士・清河八郎は1861年(文久元年)の暮れから翌年にかけて西国を遊説し西南雄藩の志士らと語り、京都伏見で討幕の挙兵を企てるが、薩摩藩の寺田屋騒動によって未然に頓挫し、その後江戸・関東を放浪しながら、増える浪士をまとめ自らの尊王攘夷を旗印として、秘かにその召集を幕府の名に於いて行うことを人を介して幕府に献策するのである。これらの志士・浪士の横行に手をやいていた幕府は、この献策に飛びつき、文久二年(1862年)十二月八日にこの議を決し幕臣松平主悦介(講武所兵術教授方)に委ねたのである。この浪士徴募が、後の新選組誕生へとなっていくのである。

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