嘉永六年(1853年)米国のペルー艦隊が来航し、徳川幕府の二百六十年の鎖国政策が崩壊し、世情は混然の様相を呈し、市民の生活は貿易により圧迫され、独断による外国との通商条約の締結などで、諸藩に尊王攘夷の声が湧き起こり、幕府の失政を正さんと桜田門外の変、坂下門の変と江戸城内に於ける襲撃事件など、今まで考えられない事が起こり幕府の権威も次第に失墜となっていた。
文久年間に入ると更に尊王攘夷の動きが激しくなり幕府より朝廷への働きかけが、攘夷派志士、藩士の活動も幕府を恐れない展開がくり広げられてきた。
京洛では天誅と称し公武合体を進める幕府に味方する者のテロが横行し脱藩浪士の中には尊王を口実に強盗、略奪など幕府の取り締まりも関係なく行われ、市中は治安への不安におびえ、幕府の力が衰えているのを実感する。
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江戸に於いて浪人が増えだし、辻斬りや強盗等々も増え始め、それらの弾圧がやがて反動となって桜田門外の変のような事件を引き起こすと、浪士対策に頭を悩ませていた幕府であった。一方、朝廷から攘夷の実行を強硬に迫る様相が志士、長州藩士などが後押しした結果が出てきていた。
世情騒然となる中、近藤勇は天然理心流の試衛館の道場主とし送っていたが脱藩浪士山南敬助、原田左之助、永倉新八、藤堂平助らが食客として道場に出入りし、互いに尊王攘夷を語り、幕府のお膝元で育ち成長してきた近藤勇は公武合体派であった。
試衛館跡 稲荷神社
天然理心流三代目近藤周助の養子となり嫁をめとり文久元年(1861年)二十八歳で四代目を襲名し近藤勇となり試衛館の道場主となり、九歳の頃から内弟子の門下生であった沖田総司を師範代に据え文武に励んでいた。土方歳三なども、この頃はよく稽古に励んだという。



資料=太陽1969年昭和44年7月号
試衛館跡周辺の元柳町25

桜田門外の変後、幕府は公武合体を進めるが、尊攘派の統制対策に苦しんでいた。
その対応策の一つとして、幕府は浪士の徴募をし浪士隊を結成することにした。江戸、近隣の道場や高札など、その募集を知らせたという。
文久二年(1862年)の策であった。近藤勇三十歳であった。
⇔
近藤勇は幕府の「浪士募集」を知ると、道場の主な者を集め相談し、養父
近藤周助にも話し応じることに決した。
幕府は尊王攘夷派の志士・浪士の横行に手を焼いていた折から、浪士徴募の献策を直ちに採用し幕閣は文久二年(1862)十二月八日この議を決定し表向きの献策提出者・講武所剣術教授方松平主悦介にその任を与えた。
さらに幕府は十一日には講武所に諸家の家来、浪人から剣術。槍術の優れた者の輩出を命じ、十二日江戸市中の名の通った剣術道場主を町奉行所に出頭させ同じ内容を伝えた。
しかし、限られた人数では浪士統制の実績は期待できないと文久三年(1863)一月七日、老中板倉勝静は松平主悦介に対し、江戸周辺へも徴募の知らせを行い広範囲に実行するよう命じた。
しかし試衛館には、その旨の達しは無かったという。天然理心流は旗本・諸藩士が通うほどの道場ではなかったのである。道場剣術とは違った実践的剣法を主体とし、どんな相手にも気を持って倒す剣法は竹刀で競うより一撃で敵を倒す剣法であったという。
元々、天然理心流派宗家二代目の近藤三助は多摩出身で、そんな縁で門弟も多摩中心で理心流も普及したが、江戸市中では流行しなかったという。
しかし、他流派の腕ききの浪士が近藤に一目おく程の腕前ではあった。
《浪士徴募への動向》
ペリー来航に露呈した徳川幕府の弱体化に雄藩には、尊王攘夷が高まり政権掌握に動き出す面もあった。
さらに幕府大老井伊直弼が暗殺されるなど、その母体はますます混迷を増し天皇家との和睦を図り、公武協力して難局の打開を図ろうとするが、井伊大老の安政の大獄が暗殺によって終息すると京洛に於いては天誅と称するテロが横行し治安は不安定となり、市民生活にも大きな影響が出始めた。
〈 ⇔ 〉
文久(1861年)と改元されるが、情況は悪化するばかりであった。幕府は京都所司、町奉行を置いていたが、すでにその力ではこれらの情勢をせき止める事は不可能であった。幕府はこれ以上の「強大な力」をもつ京都守護職を定め「公武合体」の推進、京の治安攘夷運動の鎮火を進めることに決定するが、勤皇志士と称する浪人の横行は続いていた。
「会津藩」が「京都守護職」に就任し、文久二年(1862年)十二月九日、江戸を出立、二十四日午前九時頃、京の三条大橋に着いた。
さらに翌三年一月五日、将軍後見職となった一橋慶喜が上洛、朝廷との融和に務めるが勤皇志士結託した過激な公家らは一方的に天皇の名を語り無謀な攘夷の事項を迫っていた。
会津藩主松平容保京都守護職は当初は天誅と称してテロを続ける浪士対策であったが三条・足利将軍事件が起きると初めて強硬な取り締まりを始める。
話を先に進めてしまったが、文久三年三月四日に「将軍・徳川家茂」の上洛し、朝廷との「公武合体」を強調するものとしようとする。この将軍上洛に伴って不安定な京洛の治安に幕府は浪士徴募の献策にとびつき歯には歯をの浪士を浪士が取り締まることにする。建て前は将軍警護であった。
この「浪士徴募」は、出羽浪士の清川八郎の考えであり、郷士といってもバックに藩がある訳ではなく「戦力」はなかった。そこで「浪人」を幕府に徴集させ、その頭となり武を持ち、「尊王攘夷」天皇の親兵とにしてしまおうという計画であった。しかし、幕府はそんな腹蔵あるとは知らず、大きな問題となっていた「浪人対策」には浪人でと形の上では幕府講武所剣術教授・松平主税(幕臣)の提案を受け、浪士徴募を行なったのである。
<清河 八郎 登場する>
尊王攘夷派の浪士、志士を厳しく取り締まった結果が桜田門外、坂下門の変などの大きな反動を引き起こす結果となった事をふまえ、幕府はそれらの浪士を懐柔統制することを考えた。
しかし、京洛における長州藩を筆頭に尊王攘夷運動は日増しに強まるばかりで幕府は朝廷との公武合体を推進しようと躍起になっていた。しかし、天誅と称すテロは一向になくならなかった。また討幕の動きさえ出始めていた。は引きしまし、裏切り者や尊攘の徒を警戒し、「尊攘長老筆頭中川宮」に具申しながら、京洛幕政の元心を固めて進行して体裁を整え官軍と称して、目にした賊軍にはなるべくならないのに役に立つかたち。また幕政官軍の登場にも似せてきた。
そんな中で、出羽庄内(山形)藩の郷士(浪士)清河八郎は、江戸に出て千葉周作の門下として剣を学び、また幕府の昌平学に学びながら政治的志を固め、文久元年(1861年)から西国を遊説したり、西国雄藩の志士ら(藩士も含む)と交流を深め京都伏見で討幕の挙兵を画策するが寺田屋事変などによって未然に挫折したが、その後も関東や諸国を放浪しながら尊王攘夷の実を上げ朝廷の一軍を作ろうと考え幕府の名に於いて所在の浪士を召集し、それを自分が牛耳って寿志貫徹しようと当時交際していた幕臣・山岡鉄舟らにもちかけ、幕臣松平主悦介に献言し幕府に献署させたという。
諸藩の志士、脱藩浪士にはバックに藩があり同志があった。藩士出身でない清河は討幕の失敗で多くの同志を得て、それを櫓に活動する必要を感じ西国の遊説も結局一人では相手はなかなか動かず、遂に反感すら抱かれてしまった悔しさから、この浪士徴募を思いつき幕府に行わせ、そしてそれを自分が頭となって采配する考えに至った。
文久三年二月四日、五日の両日、幕府の徴募に応じた者約三百人が伝通院に集合した。当初幕府は五十名位に予定し一人当たり五十両の手当しか考えていなかった。松平主悦介はその処置にこまり辞任してしまった。しかし、幕府は総額二百五十両の予算は変えなかった。そのため浪士取締役に鵜飼鳩翁が任命され幕府の小普請格の山岡鉄舟、旗本松岡万、佐々木只三郎ら約三十人を任命した。
※資料は2004年4月10日、玉造町観光協会が一年間限定で開いた記念館で手にしたものである。

浪士、伝通院へ集合する
浪士組結成に踏み切った幕府は文久三年(1863年)二月四日(3月22日)小石川伝通院へ集合させた。しかし、当初の予定より多くの浪士が徴募し一人当たりの仕度金五十両では不足で、この日は人数が多くても予算は増えない。不服なら去ってもよいと伝え、特技(剣・槍等々)と氏名などの受付を始めた。そして翌五日(3月23日)改めて同所で仕度金の支給、隊の編成を発表するとして解散した。

二月五日(3月23日)再び浪士らは伝通院へ集結した。昨日は三百人程の集結であったが手当が少ないためか少し減っていたという。
この日の集結は当時の浪士隊参加者でも、その人数がまちまちである。おおよそ二百三十七から二百四十人くらいであったと思われる。因みに編成された浪士組一番組の早川文太郎の尽忠報国勇士姓名録では二百二十九名、同五番の小頭となった森土鉞四郎の新徴組上洛姓名録では二百三十七名、取締役となった山岡鉄舟の廻状留では二百三十七名等々がある。
浪士組は七番組に分けられ、幕府から取扱鵜飼鳩翁がなり、その下に取締役を置いた。実際の発案者の清河八郎は、別格扱いとなり、その同志らは組の伍長(組長)に就いていた。
将軍上洛の警護が浪士組の任務となり、二月八日(3月26日)江戸出立と決まった。
沖田総司の実家を継いだ沖田林太郎は井上源三郎と共に何故か近藤勇らと別の組になっていた。
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