近藤勇神社と祠〈生家跡に建つ〉
2004年6月1日撮影
近藤勇生家跡遠望
龍源寺門前から前方の林辺りが近藤勇生家跡及び撥雲館道場跡を望む。
近藤勇の手紙見つかる
龍源寺=近藤勇墓所
1969年4月20日撮影 上中
2004年6月1日撮影 下
訪れた昭和44年4月20日は住職は留守で勇の妻が作ったドクロの刺繍が背にある稽古着、木刀は観ることができなかった。夕刻前の春の陽ざしが降り注ぎ静寂さだけが佇っていた。
龍源寺=参道に建つ
1969年4月20日撮影
訪れた時、中央自動車道高速道が建設中の時であったと記憶している。
龍源寺=近藤勇の胸像と天然理心流の碑
龍源寺本堂と墓地
2004年6月1日撮影 上
1969年4月20日撮影 下
本営も新しく改築されたようだ。1969年当時の墓地は竹林が風に揺れていた。下の写真の中央の大きな碑が近藤勇の辞世の句碑。右側に四基並ぶのが近藤勇、宮川家関連の墓である。
近藤勇の墓と近藤家の墓〈辞世の句碑〉
1969年4月20日撮影 上
2004年6月1日撮影 下
上下とも左から四番目一段高い墓石となっている。近藤勇の左に建つ墓は勇五郎の墓
近藤の首は塩づけされて京に運ばれ、その後、京の誓願寺、岡山の寺、会津の寺といろんな説がある。さらされた首は誰れか(隊士らしいとの説あり)が持ち去ったといわれている。
隊士・宮川信吉の墓〈宮川家本家の墓〉
宮川信吉は近藤勇の叔母(勇の父、久次郎の妹=ノリ)の子。慶応元年(1865年)四月、副長の土方歳三の江戸下りの時に入隊。南部藩脱藩・吉村貫一郎や大石鍬次郎と同期である。
慶応三年(1868年)十二月七日(1月1日)油小路の天満屋事件で討死。
天保十四年(1843年)多摩郡大沢村、宮川弥五郎の次男として生まれる。
西光寺・近藤勇の座像
昭和44年(1969年)に調布を訪ねた時には勿論なかったものである。町興しの一環としてのものであろう。高幡不動の前の商店街もすっかり様替わりしているのも、その一つであったのだろう。
近藤勇の書簡を発見(新聞切り抜き)
近藤勇の妻・ツネの実家跡=松井八十五郎旧宅跡
ツネは天保八年(1837年)九月二十日(10月19日)徳川御三家の一つである田安家の御用人松井八十五郎の長女として生まれた。万延元年三月二十九日(1860年4月19日)近藤勇と結婚、長女瓊(たま)を出産している。勇二十七才、ツネ二十四才であった。
近藤が浪士組として上洛後、鳥羽伏見の戦いまで(一度は帰ってきているが)けなげに江戸・試衛館(道場は閉鎖)を守っていた。
慶応四年(1868年)鳥羽伏見の戦い後、新選組は勝海舟の命により甲陽鎮撫隊を結成、甲州城めざして出陣。その時、妻ツネと娘タマは二十騎町の家を引き払い、中野坂上の成願寺に移り住んだという。
近藤らが勝沼の戦いに敗れた後は、どうなったのか分からないが、娘のタマが近藤勇五郎に嫁いでいる所から同居していたと考えられる。
明治二十五年(1892年)四月二十日に死去。
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