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多摩の新選組・土方歳三①

土方歳三銅像
高幡山金剛寺
目次

土方家・土方歳三家系図

私が訪れた時(1969.4.20)の記念帳から
当時、お大尽と呼ばれていた土方家は蔵が三つもあったという。玄関前の左側の庭先に歳三が旗本屋敷をまねて竹を植えたといわれ、今も残っていた。

丁度来客があったが、土方康さんがおられ、玄関脇の大黒柱は(歳三が風呂上りに相撲のてっぽうをしたという)黒光りする柱は見事なものであった。来客のため、話は余り聞くことができなかったのが残念だ。

骨折、打ち身に効く石田製薬の行商をしながら行く先々の道場で腕を磨いたという。人の好き嫌いが烈しかったとも。

勇と知り合ったのは勇が近藤家の養子となった三年目に江戸で知り合い、八王子の荒川道場で原田左之助を知り、試衛館に連れてきたという。

松坂屋跡

土方歳三、十一歳の時、江戸の伊藤・松坂屋に丁稚奉公に出された。しかし、あまり長続きせず、帰郷した。さらに十七歳の時、再び伝馬町の呉服屋に奉公に出され、この時、女中と関係した事が主人に露見し日野に逃げ帰ったが兄の喜六、義兄・佐藤彦五郎らにさとされ、夜を通して江戸へ戻りふしまつを解決して帰郷したという。


この頃、多摩地方では次・三男対策に苦しんでいたという。相当な財力のある家でも分家として土地を分け当てる程ないくらいに開拓され尽くした状況であった。婿養子縁組の例が多く、中には生涯結婚もせず、生家の農業の手伝いで終わってしまう例も少なくなかったという。歳三とて丁稚奉公に出ざるを得ない状態であった。

江戸から帰郷後は、家業の一つである石田製薬の行商を姉の嫁ぎ先の佐藤彦五郎宅に入りびたりになりながら手伝うが、好きでもない行商に身が入る筈もなく、彦五郎宅の天然理心流道場で剣を学ぶ日が多くなっていった。そんな中で出稽古に来る近藤周助・勇らを知り、肝胆相照らす仲になっていった。当然、年下の沖田総司の天才的な検さばきも目にしている。

また、書・俳句も彦五郎に学び、多彩に過ごした青春時代に沈着、大度ある気概に富んだ性格が形成されていった。

慶応四年(1868年)五月十五日(7月4日)上野戦争の時、薩摩藩本営を設置したという。西郷隆盛が指揮をとったといわれる。

高幡不動の山門=仁王門

上 1971年2月27日撮影
下 2004年1月24日撮影

神奈川・大山、千葉・成田山と共に関東三大不動として名高い高幡不動尊・金剛寺は土方歳三の生家も檀徒であるという。

高幡不動・殉節両雄の碑

仁王門を入ってすぐ右に行くと奥の静かな余り目立たぬように建っていた。

この碑は訪れる度に周囲が少しずつ変わっていた。古写真は周りは竹の柵で囲ってある。説明板も風化するのかその都度新しくなっている。

〈説明板〉
殉節両雄の碑
幕末新選隊の隊長近藤勇は調布の人
副隊長土方歳三は日野市の出身である。両雄の節義を顕彰して当山二十九世賢雅和上が明治九年に建立した。大観清崇の撰文にかかるもの

二度目に訪れた高幡山金剛寺

この碑は会津藩主松平容保の篆額で(題字=殉節両雄之碑)撰文は勇の終世の知己であり、会津戊辰戦争に会津藩にもきており、長岡藩家老河井継之助も治療を受けた松本良順である。

日野・佐藤彦五郎、土方の実弟粕谷良循、近藤勇五郎らの働きで建ったものという。

三度目に訪れた高幡山金剛寺

当初の場所から移したという。

大日堂=高幡不動尊内 土方歳三の位牌

資料=高幡不動発行
歳三菩提寺
高幡不動尊の新撰組関連資料

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