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新選組のふるさと日野

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八坂神社

安政五年(1858年)秋に奉納された「奉献」額は当社、神社の扇上にあったと伝わるが、現在は改築された神殿に納められているという。

木刀=本が飾られ、天然理心流 近藤周助藤原邦武 とあって、井上松五郎 佐藤彦五郎 とつづき

中程右寄りに 井上源三郎 があり

最後に 沖田惣次郎(沖田総司)、嶋崎勇(近藤勇) で終わっている。

この頃、土方歳三は名を連ねる程の腕前に達していなかったか、入門していなかったであろう。

2004年1月24日撮影

大国魂神社=天所宮

安政七年(1860年)三月十八日(4月8日)万延元年と改元され、近藤勇は三月二十九日(4月19日)結婚、そして九月三十日(11月12日)府中宿・天所明神に献額が行われた。その神事を終えた後、近藤は木刀、土方は刀を潰した刃引の刀で「形試合」を奉納したという。

また、文久元年(1861年)八月二十七日(10月1日)天然理心流宗家四代目を継いだ近藤勇の襲名披露の野試合を行った。

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万延元年の奉納額は現存していないという。

2014年6月1日撮影

この櫓の詳細は、持ち本「新選組隊士遺聞」に掲載されている。

文久元年八月二十七日(1861年10月1日)に行われた野試合は本陣を置き、紅白の二つに分かれて行われた。
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本殿前も広いが大鳥居からの参道が広く、野試合が行われたのも頷ける。

広い境内は種々の木々が茂り、当時の面影が感じられる雰囲気が漂っているように感じられた。

慶応三年(1867年)近藤勇が一時に帰東した折、井上松五郎は次男の井上泰助を武士の修業をさせたいと、近藤勇に託し近藤の小姓として入隊した。その泰助が慶応四年(1868年)の正月、鳥羽伏見の戦いに参戦し叔父にあたる井上源三郎の戦死の折、その場に居合わせたという。

幕軍が淀千本松に布陣。新選組六番隊長の井上源三郎も胸壁を構築し、銃撃しては抜刀し斬り込み、また銃撃するという死闘を展開したという。撤退の命令も聞かず戦いを続け、流れ弾に被弾し戦死。この時十二歳の泰助は、その首を撤退途中、寺の門前に埋めたというが、その寺の名前が分からないという。

井上源三郎邸近くに在るお地蔵。歳三が遊びに来る時お参りしたと伝えられている。

日野宿本陣

佐藤彦五郎と新選組

佐藤彦五郎邸=日野宿本陣跡

旧甲州街道に面してあった門を現在裏庭に移動されていた。後ろのマンションは無関係である。

2004年1月24日撮影

門前に建つ「天然理心流 佐藤道場跡」の碑。

当時は旧甲州街道沿いに用水路があり、橋が架かり、表門の左側に道場があったという。

本陣

本陣の式台まで表門からかなり距離があったという。広大な屋敷で長屋門もあったという。

大昌寺=佐藤彦五郎俊正の墓

日野は幕府直轄の地(多摩一帯だが)であり、農民といえども将軍のお膝元の気概があったという。佐藤彦五郎は十一歳にして名主役を継ぎ、日野三千石を管轄し村事に励んだという。十八歳の時土方歳三の姉のぶをめとり、二十三歳の時家が類焼にあい、その時、乱心者に祖母が殺害され、二十四歳の時、近藤周助の天然理心流に入門(嘉永三年=1856年)三年後に免許皆伝となった。幕末の世情不安が高まり、治安のため農兵隊を結成し百姓一揆打払いに活躍したり、多摩一帯の治安に活躍している。その後、近藤勇らと親交を深め新選組の後援、よき理解者であったという。

2004年1月24日撮影

佐藤家、彦五郎の墓

〈下の墓〉
彦五郎の墓には妻のぶ、子供の法名も入っている。

俊正院春誉盛車居士 明治三十五年九月十七日亡(七十歳)

勧善院宣誉徳顕大氏 明治十年一月十七日亡(四十七歳)

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新選組が甲陽鎮撫隊として甲州へ向かう時、彦五郎は道場の剣士を中心に春日隊を結成し出陣する。しかし、柏尾山で敗退となり、彦五郎は西軍の追求を厳しく受け、一族は離散となり、長男の源之助は捕らわれの身となった。戦い敗れ江戸に潜伏中の近藤・土方らh、勝海舟・大久保一翁を通じて救出に奔走。ようやく許され佐藤家は助かっている。

〈近藤勇の死をいたみて〉
鬼百合や 花なき夏を 散りいそく

〈土方の戦死を悲しみて〉
待つ甲斐も なくてきえけり 梅雨の

の俳句を残している。

右が彦五郎俊正の墓 左が俊高の墓

旧甲州街道・日野宿 問屋場、高札場跡

小島家=小島資料館

昭和43年(1968年)11月開館

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天保十三年(1842年)十月、寄場名主の家として新築。屋号は油家で建坪九十坪の家だったという。現在も敷地は広く母屋、蔵二つ。

小島家では小島角左衛門が天保期に天然理心流に入門。長男の鹿之助が嘉永元年(1848年)に入門。後の新選組のスポンサー的存在となる。甲陽鎮部隊の隊長近藤勇とは義兄弟の契りを結び、幕府崩壊後も近藤、土方の汚名挽回に力を注いでいる。

小島鹿之助(のちに為政と改名)は漢学も学び、近藤勇と共に県の技を研磨し近藤に漢字を教えたという。当時、小野路村外三十四か村組合の寄場名主として、民政に参し、慶応二年(1866年)七月には農兵隊を組織し、当時の世情不安の治安にも力を入れた。この隊は同四年(1868年)三月に解散している。また、郷士の教育家として子弟の教育にも力をいれている。

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小島資料館には新選組関係資料が百点にも及ぶという。当時の古文書、典籍、道具類など実に一万点も保存されており、東京都の有形文化財に指定されている。

写真上、家の前の路に長い塀が続いていた。

小島為政の墓

小島家から数百ḿ坂道を登った左に入り、台地のふもとに墓地があった。

小島為政夫婦の墓

石田村名主伊十郎屋敷

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