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多摩の新選組・沖田総司

専称寺、沖田総司が将棋の台にした石
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沖田総司

新撰組隊士の中で女性に最も人気のある一人である。司馬遼太郎の新選組血風録、燃えよ剣等の功である。淡い恋、労咳剣士等々が心を惹くのであろう。また、ミステリアな面もあるだろう。

天保十五年(1844年)江戸・白河藩阿部播磨守の下屋敷の長屋で生まれたと伝わる。総司が二歳の時に父勝次郎は死亡。姉ミツとキンの二人がいる。ミツは十四歳の時、日野の井上惣藏の弟、林太郎を婿養子に迎え沖田家を相続した。この頃東北地方に多かった姉相続の風習に倣ったのかもしれない。総司が男子でありながら相続しなかったのは、まだ幼い総司ではとの思いもあったのかもしれない。沖田家は代々江戸に住んでいたという。が、父の死後、藩とは自然に禄が切れていったのであろう。九歳で近藤周助の天然理心流試衛館に入門、内弟子となった。林太郎は日野ですでに天然理心流を稽古していたと思われ、そんな関係もあったと推測される。十九歳頃には免許皆伝、塾頭に達し、近藤の代稽古として多摩に出稽古に行っている。稽古が荒く近藤より恐れられたという。

沖田総司終焉の地

新宿区大京町29(旧植木屋平五朗邸)慶応四年五月晦日(三十日)1868.7.19
千駄ヶ谷池尻橋の植木屋平五郎の家で亡くなった。享年二十五歳と二十七歳の二説がある。どっちが本当か定かでありませんが、沖田家は二十五歳といっております。私は例え二年でもこの世に永くあったーという点から二十七歳としているのですがー。ところで沖田終焉の地を大京町28とするのは誤りです。その場所は図面の左上の旧大野家の跡で、道路の向かいにあります。※沖田の臨終については、子母澤寛の新選組始末記で語られた、黒猫の話が有名ですが、これは虚構です。
道路の東側で現在大京町遊び場がありそこに池尻橋の欄干が残っています。

従来、伝えられて来た場所

上記記載地図の池尻橋跡の所

昭和40年代(1965~)に発表されていた古写真は、右のマンションは木造二階建ての家で見るからに植木職人・平五郎の家に見えた。研究家によって新しく発見されたのは道路の反対側で、この地より少し離れていた。上に掲載した池尻橋の欄干が残っている所から見ると空地の形がよく似通っている—。

今戸神社

江戸名所図会の今戸八幡宮の往時の姿は変わっていた。

沖田総司の終焉の地のもう一説の今戸神社である。新選組二番隊組長長倉新八が残した同志連名記で記していることから伝わっている。幕府の医学所で治療する鳥羽伏見の戦いの負傷者を治療する医師であった松本良順が称福寺に移し、自らもこの今戸神社に寓居して治療に通ったという。沖田総司もこの移動時に今戸神社に移ったと伝わっている所から終焉の地と言われている。

貴重な永倉新八隊士のの資料も100%とは言えない節もあり、更に当時幕府の医師であった松本良順の話の中にも沖田総司の名は出てこないと伝わっている。一方、子母沢氏の新選組始末記の千駄ヶ谷の植木屋の平五郎の納屋説の中に、沖田の介護の老婆から後に沖田林太郎・のぶ夫妻に語った実話であると記載されている。

私は子母沢寛説を信じたい。

狛犬の一対

文政五年に奉納された狛犬の台座に宮川久次郎と名が刻まれているが、近藤勇の父と同名の人物と判断されている—と理解する研究家もあり、諸説がある。

専称寺 沖田総司の墓(麻布桜田町)

1970年4月15日撮影 上段
2004年5月3日撮影  下段

沖田の剣は三弾突きが得意で、その速さは相手に休む間もなく、一本の線のようにするどく躱す時を与えず、必ず斃すといわれたという。

専称寺=沖田総司の墓

沖田総司が将棋の台にした石

どんより曇った日であった。少し肌寒い。墓前には既に花が供えてあった。若い娘に人気者の沖田の面目躍如。参拝者がそれぞれの思いを記したノートも何冊にもなり、寺に保管されていた。

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